更新日:2021年1月6日
ベートーヴェンという作曲家は、音楽家であろうとなかろうと、日本人には一種独特の存在感があるようです。そのようなベートーヴェンとのお付き合いがいつ、どのように始まったのか、藝大音楽学部の歴史史料のなかに探ってみましょう。東京音楽学校の卒業生やご親族からお寄せいただいた史料から、大先輩たちがベートーヴェンに勤(いそ)しんだ跡の見える二点を探し出しました。
ベートーヴェン作曲《菊の盃》の写譜
(田中ろく旧蔵)(吉川道子氏ご寄贈)

田中ろく ベートーヴェン作曲 O Welt, du bist so schön 《菊の盃》写譜
端正な手書きの楽譜です。O Welt, du bist so schön(世界よ、おまえはあまりに美しい)Beethovenとあります。タイトルはドイツ語ですが、混声四部の合唱譜にはカタカナが書き込まれています。歌詞を漢字交じりにすると、こうなります。
一、いはへひとびと 千度百千度(ちたびももちたび)
御代はなが月 けふのよき日。
菊の盃を あゝとりどりに
菊の盃を とりどりに
二、いはへひとびとちたびもゝちたび
いとどかがやく 國のほまれ
菊の盃を ああとりどりに
菊の盃をとりどりに。
旧暦9月9日の重陽(ちょうよう)の節句には、邪気を払うとされる菊の花びらを浮かべたお酒で不老長寿を願う習慣がありました。楽譜には書かれていませんが日本語タイトルは、『東京音楽学校演奏会歌詞 明治三十二年十二月以降』という歌詞の綴により《菊の盃》と判明しています。作歌者は、瀧廉太郎の《花》などの作詞で知られる武島羽衣です。音楽学校教授として国語と歌文を教えていました。
《菊の盃》が初めて演奏されたのは、明治38(1905)年10月28日と29日の東京音楽学校第13回定期演奏会、菊の季節でした。プログラムに「合唱 ベートーフエン 菊の盃」とあります。翌39(1906)年11月の第15回定期演奏会、明治40(1907)年3月23日の卒業式にも演奏されました。
当時の音楽学校では入学すると「写譜」の授業がありました。唱歌集や初歩の練習曲の楽譜は売られていましたが、専門的な楽譜はほとんど輸入版ですから容易に入手できず、生徒たちは図書館の楽譜を書き写す必要がありました。合唱譜に限らず、ヴァイオリン専攻生ならヴァイオリン譜と伴奏譜、室内楽ならスコアと全パート譜、何でも写譜しました。
ご紹介する譜面は、平成27(2015)年に上野(旧姓田中)ひさ史料として大学史史料室が受け入れた史料群の一つです。田中ひさは明治43(1910)年4月に入学し、ヴァイオリンを専攻しました。ヴァイオリンの写譜が数々残された中に《菊の盃》もありました。しかし調べていくうち、ひさの在学期間とこの作品が演奏会で取り上げられた時期が合わないことに気づきます。写譜を見直すと、O,Welt,…の下には同じ頃に演奏されたナニーニG.M.Nanini作曲Stabat mater dolorosa(安藤勝一郎作歌『墓前の母』)があり、その末尾のサインがH.TanakaではなくR.Tanakaとなっているではありませんか。そういえば寄贈者から、田中ひさの姉も東京音楽学校の卒業生と伺っていたのでした。ひさの姉・宇川(旧姓田中)ろくの写譜でしょうか。田中ろくは明治19(1886)年2月に生まれ、明治36(1903)年9月、秋入学だった東京音楽学校に入学し、翌37(1904)年7月予科修了、本科でピアノを専攻して同40(1907)年3月に卒業し、研究科を同42(1909)年9月に修了しました。神戸絢(かんべあや)教授門下で、在学中はベートーヴェンやウェーバーのソナタを演奏しました。田中ろくの在学期間と《菊の盃》は一致します。ろくは在学中の演奏会で《菊の盃》を歌い、卒業時にも歌ったのでした。当時の音楽学校で合唱といえば全校生徒による合唱でしたから、ピアノ専攻のろくも写譜を所持していたのです。ベートーヴェンのO Welt,…和名《菊の盃》の作歌が実際に書き込まれた写譜が初めて、それも生徒側史料から見つかったのは感慨深いことでした。
《菊の盃》の原曲は何でしょうか。当時の演奏会プログラムの解説に「斯曲の原表題は「宇宙の美」、其歌詞はローデンベルグの属する所なり」とあります。Julius von Rodenbergの詩は、スミレが咲き、木々が芽吹き、雲雀が陽気にさえずる、5月の美しさに春の歓びを謳います。自然美を愛でるところは共通ですが、菊の盃に秋を愛で、長寿を願う《菊の盃》とは大きな隔たりを禁じ得ません。ベートーヴェン作曲《七重奏曲》変ホ長調 作品20(1799)の第4楽章の変奏曲では、この旋律が主題になっています。
田中ろくの学生時代にカメラを近づけましょう。奏楽堂でオペラ《オルフォイス》が上演されたのは明治37(1904)年7月です。三浦(柴田)環は本科を卒業し、ろくは予科を修了しました。ろくの1年後輩に山田耕筰がいます。明治40(1907)年3月、ろくが卒業間際に受けた学年末試験の問題が史料室に保存されています。「楽式」の出題者は島崎赤太郎。問題はペンの縦書きで二問あります。第一問は「ベートーベン作曲番号廿六第十二変イ調ソナタ中ソナタ形式を有すものありや」。作品26は「葬送」で知られるソナタです。第一楽章はソナタ形式ではなく変奏曲で始まり、第二楽章以降もスケルツォ、葬送行進曲、ロンドと、従来の3楽章形式ではなく、4楽章構成の革新的な作品とされています。島崎教授はベートーヴェンを事例にソナタ形式などの楽式を教えていたのでしょうか。ちなみに第二問は「モッツアルト作ト調ソナタ第壱章を分解せよ」です。明治から戦前の筆記試験は、外国語などは和訳や文法など現在とあまり変わりませんが、楽式や歴史や音響学などは、簡潔な問題に対し、詳しい記述を求めるのが一般的でした。生徒は白紙の答案用紙に問題を書き写し、一問につき今のB4程度の紙1枚から2枚に縦書きでびっしり記述します。

田中ろくが卒業した明治40年3月の集合写真。田中ろくは3列目、右から5人目。
教師たち:前列左から2人目 頼母木コマ、橘糸重、島崎赤太郎、武島又次郎(羽衣)、上原六四郎、高嶺秀夫校長、幸田延、安藤幸、鳥居忱、一人おいて富尾木知佳。
2列目左から5人目 楠美恩三郎。(音楽学部大学史史料室所蔵)
田中姉妹の話に戻しましょう。田中ろくの妹・ひさは明治26(1893)年10月生まれ。明治43年に東京音楽学校予科に入学し、本科器楽部でヴァイオリンを専攻し、安藤幸に師事しました。大正5(1916)年3月研究科修了し後進の指導にあたり、同年11月、美学・美術史研究者の上野直昭(なおてる)(明治15年生)と結婚し、翌6(1917)年にはピアノ専攻で研究科に再入学し、後進の指導にあたります。大正13(1924)年ヴァイオリン研究のため2年間のドイツ在留を命じられますが、これは夫が美学美術史研究のため欧米在留を命じられた時期と一致します。学校当局の粋な計らいでしょうか。折しもドイツは第一次大戦後のインフレとマルク安でした。夫妻が買い込んだ大量の図書や楽譜が夫妻の蔵書となったのでしょう。直昭が京城帝国大学の教授に就任すると、ひさも京城管絃楽団と共演します。戦後は上野学園大学教授となり、昭和33年より同大学管弦楽団の初代コンサートマスターを務めます。直昭は国立博物館長、東京美術学校長など歴任、昭和24年に東京藝術大学が発足すると初代学長に就任します。直昭は昭和48(1973)年、90歳で永眠し、ひさは24年後の平成9(1997)年、103歳の長寿を全うしました。

右から宇川(旧姓 田中)ろく、長男・毅、妹・田中ひさ。
(吉川道子氏ご寄贈、上野ひさ関係資料より)
上野家史料の寄贈者は、夫妻の孫にあたる吉川道子氏です。直昭史料を美術学部が、ひさ史料を音楽学部が引き受けました。ひさ史料のなかにヴァイオリン専攻生にしては相当量のピアノの楽譜がありましたが、ひさがピアノで研究科に入学した経緯もあり、特に疑いませんでした。今となってはピアノ譜の旧蔵者がろくなのかひさなのか判然としないでしょうが、ろくは宇川家に嫁ぐとき、ピアノを弾く妹のため楽譜などを実家に残し、それが母校に届いた可能性もあるでしょう。ろくは昭和23年10月に62年の生涯を終えましたが、ひさ史料と括られたなかから、一枚の写譜が「これ、ろくのです!」と声を上げたように思えてなりません。この写譜を紹介しようと思い立った時、かような展開が待っているとは全く予測しませんでした。ベートーヴェン生誕250年を機に、今から110年以上も前の写譜《菊の盃》が陽の目を見、その旧蔵者が明らかになったのです。
橋本 久美子
(東京藝術大学音楽学部大学史史料室非常勤講師)

橋本 久美子 Kumiko Hashimoto
東京藝術大学音楽学部大学史史料室非常勤講師。東京藝術大学音楽学部楽理科および同大学院音楽研究科修士課程(音楽学)修了。『東京芸術大学百年史』の音楽篇全6巻の編集に携わり、音楽取調掛、東京音楽学校、そして東京藝術大学をめぐる諸問題を近現代史に照らし、再検証を行っている。『ピアニスト小倉未子と東京音楽学校』(共著2011)、乘杉嘉壽および戦時下の音楽学校に関する論文等。日本アーカイブズ学会登録アーキビスト、NPO法人日本アーカイブ協会認定デジタルアーキビスト。