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第13回 橋本久美子「ベートーヴェンに勤しんだ東京音楽学校の先輩たち」②

更新日:2020年11月29日

 ベートーヴェンという作曲家は、音楽家であろうとなかろうと、日本人には一種独特の存在感があるようです。そのようなベートーヴェンとのお付き合いがいつ、どのように始まったのか、藝大音楽学部の歴史史料のなかに探ってみましょう。東京音楽学校の卒業生やご親族からお寄せいただいた史料から、大先輩たちがベートーヴェンに勤(いそ)しんだ跡の見える二点を探し出しました。

情報満載の堀内敬三著『ベートーヴェン管絃楽作品解説』

(昭和12年6月音楽世界発行書)(大井悌四郎(ていしろう)旧蔵)(河野マリ子氏ご寄贈)



堀内敬三著『ベートーヴン管絃楽作品解説』表紙。

門馬直衛著『音楽家と音楽 ベートーフエン』(大正13年)と綴じてある。



堀内著の交響曲第一番のページに貼られた新聞記事


 「洋楽党喜べ」「ベートーヴエンの交響曲を連続演奏 今夜は先づ第一番ハ長調」。新聞記事のこんな見出しが目に飛び込んできます。「10-1.8火」のメモを頼りに確認すると、昭和10(1935)年1月8日はたしかに火曜日で、掲載紙は書かれていませんが東京朝日新聞第7面と判明しました。もう一つの記事には「中川榮三氏の指揮で 歳末定期演奏 日本放送交響楽団 交響曲「第一・ハ長調」の見出しが。「日々十一、十二、廿八(月)」とのメモを手がかりに、昭和11(1936)年12月28日、月曜日、東京日日新聞第5面と確認されました。記事を貼っている土台は堀内敬三著『ベートーヴェン管絃楽作品解説』です。これは交響曲、序曲、協奏曲・室内楽、声楽(合唱幻想曲など)の解説書ですが、本の扉に昭和14(1939)年2月の東京音楽学校第87回定期演奏会「ベートーヴェン・アーベント」のプログラムが貼られ、曲ごとにその関連記事や資料が貼り込まれています。これ一冊で作品解説、演奏会情報、批評がまとまっているのです。書籍をスクラップブック化する整理術は好都合だったらしく、ショパン、シューベルト、モーツァルトなどの書籍の随所にも同様に、関連記事が貼られています。


 旧蔵者は大井悌四郎氏。帯広に生まれ、昭和2(1927)年に予科に入学しました。1年先輩に井口基成、2年先輩に高木東六、研究科には声楽の木下保、ヴァイオリンの橋本國彦、作曲の細川碧が在籍していました。大井は高折宮次に師事し、本科2年の学友会演奏会でベートーヴェンのピアノ協奏曲ハ長調の第一楽章、卒業時には卒業生総代となり、シューマンのト短調ソナタを演奏し、「故久野久子記念奨学賞」を受賞しました。研究科ではラヴェルのソナタを演奏し、リムスキー=コルサコフの協奏曲嬰ハ短調で修了しました。東京音楽学校が昭和8(1933)年に開園した上野児童音楽学園でも講師を務めました。

大井悌四郎が卒業した昭和6年3月の本科卒業生の集合写真。

クラスメイトの氏名と専攻、自身の目印、欠席者氏名など、すべて大井自身によるメモ。



 戦後は帯広で演奏、教育、執筆に精励しますが、その足跡を大井自身が作成したスクラップブックによって窺い知ることができます。昭和24(1949)年11月12・13日付、演奏会当日に配布したと思われる「大井悌四郎ピアノ演奏会解説」が残っています。バッハ=ブゾーニ編の数曲、ショパン、ドビュッシー、ファリャ、リストとともに演奏されたベートーヴェン作品は「月光奏鳴曲」です。ベートーヴェンの解説の冒頭はこうです。


 「ベートーヴェンの音楽は、宇宙の声と迄云はれ、バッハと共に古今最高最大の音楽家である事は申す迄も御座いません。現在器楽の殆どあらゆる部門で最も数多く演奏され、従って聴く人を最も感激させるのはベートーヴェンの音楽です」。ベートーヴェンの音楽を宇宙の声と仰いだ大井にとって、ベートーヴェンは圧倒的な存在だったのでしょう。



 解説の最後に「自己紹介」を記しています。


一、1906(明治39)年4月15日 北海道帯広市東1条9丁目5番地出生。

一、同市双葉幼稚園(第1回卒)と帯広校尋常科及び東京私立立教中学卒業。

一、立大予科中退。創立以来父が修身など受け持つて居た十勝姉妹校(道立帯広女子高前進)奉職。数物科(算術・代数・幾何・物象等)担当。

一、昭和二年上野の東京音楽学校(現新制藝術大学)予科に辛うじて入学。

一、同六年本科ピアノ科卒業、研究科入学(傍ら東京府立五中「現都立新制高校」音楽担任)。

一、同八年研究科終了。聴講科入学。(母校ピアノ授業一部補助)。

一、同十年聴講科終了。(五中離任)。以上、コハンスキー、シロタ、クロイツァー諸講師等のピアノ指導を受く。

一、昭和廿一年上野との廿年の関係と低い位置を離れて帰省する迄の十年間は、楽語調査等の為書斎生活を主として居ました。従ひまして此独奏会がいわゆる達人芸を示す催しでなく、又其力も持合わせて居ない事を予じめお含み置き下さいます様願申上ます。(1949.10.29)



 上野での処遇への複雑な思いも滲ませていますが、一方で戦時中に活躍した同年代、たとえばピアノの井口基成、作曲・指揮の橋本國彦、声楽の木下保もまた、その活躍と立場ゆえ昭和21年に職を辞することとなりました。大井悌四郎が教務嘱託を解かれた昭和20年4月30日には分教場に勤務する5名が同様に解嘱されています。さらに目を引く同日の記録は、邦楽関係の34名に対して解嘱ではありませんが「自今手当ヲ支給セス」。今後は手当を支給しないとあります。選科生徒の激減が背景にあったのでしょう。


 戦後の大井は新聞等への執筆もしました。昭和27年1月18日の帯広新聞文化欄に掲載された大井の論説「日本の音楽」は、上古(奈良朝以前)から邦楽革新時代(現代)に至る邦楽の変遷を概観しています。その時代区分や名称から高野辰之著『日本歌謡史』が土台にあると見られますが、大井の文章では最後にベートーヴェンが登場するのです。



 「将来の国楽は(一)邦楽中心か(二)洋楽に邦楽を加味したものか等色々考へられますが道は自然に開けて来ると思ひます。或はベートーヴェンの様な天才が我が国にもやがては現れて決めて呉れる事も考へられます。夫迄(それまで)私共は邦楽温存と洋楽の徹底的輸入研究に努力すべきではないでせうか。」


 ベートーヴェンの様な天才がやがては現れて決めて呉れるとは。戦前戦後を通じて猛勉強家であった大井悌四郎ですが、日本の音楽の将来を案じて落ち着く先はベートーヴェン待望論だったのでしょうか。先輩たちはかくもベートーヴェンに勤しんできたのです。


昭和24年11月、北海道立帯広女子高等学校にて《月光奏鳴曲》を演奏する大井悌四郎氏。

(2点とも河野マリ子氏ご寄贈「大井悌四郎関係資料」より)

 

 余談ですが、私は藝大百年史編集のお手伝いを始めて間もない頃、上司のお供で帯広の大井先生宅を訪ねています。そこは明治44年(1911)に帯広で最初の幼稚園として開園し、平成25年(2013)に閉園し、現在は園舎が重要文化財に指定される双葉幼稚園です。大井先生のお話は在学中の校長排斥運動、男女交際が発覚し退学になった学友のこと、高折宮次先生の厳しいレッスンなど、今となっては驚くべき内容でした。しかしインタビューの間じゅう、先生の峻厳な表情と姿勢が崩れることはありませんでした。先生は平成2(1990)年に亡くなりましたが、その20年後ぐらいから今日に至るまで、かような経緯をご存じない姪の河野マリ子様が、先生の史料をまとめては母校に託してくださっています。思いがけない再会です。最後にマリ子様の思い出を一つ。「優しい叔父でしたが一度だけ、当時は曲名も知らなかったベートーヴェンの月光ソナタ第3楽章を弾く叔父に合わせまりつきをして、「うるさい」と叱られたのを思い出します」


橋本 久美子

東京藝術大学音楽学部大学史史料室非常勤講師


第12回 橋本久美子「ベートーヴェンに勤しんだ東京音楽学校の先輩たち」① はこちら

 

橋本 久美子  Kumiko Hashimoto 東京藝術大学音楽学部大学史史料室非常勤講師。東京藝術大学音楽学部楽理科および同大学院音楽研究科修士課程(音楽学)修了。『東京芸術大学百年史』の音楽篇全6巻の編集に携わり、音楽取調掛、東京音楽学校、そして東京藝術大学をめぐる諸問題を近現代史に照らし、再検証を行っている。『ピアニスト小倉未子と東京音楽学校』(共著2011)、乘杉嘉壽および戦時下の音楽学校に関する論文等。日本アーカイブズ学会登録アーキビスト、NPO法人日本アーカイブ協会認定デジタルアーキビスト。

 

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