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執筆者の写真演奏藝術センター

第2回 新井鷗子「聴覚障がいと音楽」

更新日:2020年10月14日



 「君にだけ打ち明ける。実は3年くらい前から、耳がだんだん聞こえづらくなっているんだ。いろいろな治療を試したけれどまったく良くならなくて、耳は一日中、ザーザーゴウゴウと雑音が鳴っている。だけど、僕は耳が聞こえません、とはとても人に言えない。だからこの2年くらいパーティーや食事会には出ていない。僕のライバルに知られたら終わりだからね。」


 これは30歳のベートーヴェンが親しい友人に宛てた手紙です。

 音楽の都ウィーンに出て6年目、作曲家としての仕事がようやく軌道に乗り始めたという時期、ベートーヴェンを突然襲った耳の病。音楽家にとって致命的ともいえる聴覚の障がいに気づいたベートーヴェンの動揺と苦悩はいかばかりだったことでしょう。

 大太鼓やコントラバスの低い音はどうにか聞こえるものの、フルートやヴァイオリンの高い音が聞こえず、逆に、人のかん高い声はキンキンと突き刺さるように響いてくるのだといいます。


 しかし別の手紙にはこう書かれています。

「僕のこの病気は演奏や作曲にはほとんど支障がない。」

ベートーヴェンを苦しめていた本当の理由は何だったのでしょうか。

 私の所属する東京藝大COI拠点インクルーシブアーツ研究グループでは、様々な障がい者を支援する芸術の在り方を研究し、これまでに、肢体不自由者のための「演奏追従機能付きピアノ」、発達障がい児を支援するワークショップ、視覚障がい者のための「さわれるアニメーション」、聴覚障がい者のための音量を視覚化するアプリ等を開発してきました。


 ある日、聴覚支援学校小学部の音楽の授業を見学したときのことです。彼らは活き活きとした笑顔でキーボードやマリンバを演奏し、先生の指揮に合わせて見事なアンサンブルを繰り広げていました。メロディの音符を記号や数値に置き換えたオリジナルの楽譜を使って、先生は豊かな顔の表情と指の合図と呼吸で生徒たちを導いています。

 みんな心から音楽を楽しんでいる!それはまさに目から鱗が落ちる体験でした。


 聴覚以外の体中のすべての感覚を駆使して演奏している彼らの姿を見たとき、音楽とは耳だけから伝わるのでなく、顔の表情、視線の動き、楽器を構える動作、指揮者が発するオーラなど、人間と人間とのコミュニケーションによって耳を超えて心に届けられるものなのだと改めて強烈に気づかされました。彼らは「音」は聞こえなくとも「音楽」は聴こえるのだと。




 ベートーヴェンのように生来の聾でなく人生の途中で難聴になった人は、演奏の情景を見れば、音楽の全体像のかなりの部分を想像力で補うことができたのかもしれません。作曲家は、過去に聴いた音楽や音の記憶があれば、頭の中にメロディやハーモニーを描き、音色を想像し、作品を創造することができます。音楽とは、人間の外でなく人間の内(なか)にあるもの。内なる耳で音楽をきく。それは聴覚障がいの有無にかかわらず芸術家にとって大切なことではないでしょうか。


 おそらく何よりもベートーヴェンを苦しめていたのは、難聴により人とのコミュニケーションができなくなったことでしょう。人嫌いで気難しい頑固者と周囲から恐れられていたベートーヴェンでしたが、それは難聴を人に悟られまいと外界にバリアをはっていたからで、内心は寂しがり屋で友人との語らいが大好きなのだと告白しています。ただ人一倍プライドが高く、会話がちぐはぐになった時の相手の怪訝な顔を見るのが恥ずかしくて耐えられなかったのです。

 辛い運命に絶望し、一時は自殺まで考えたベートーヴェン。しかし彼に生きる希望を蘇らせたのは、「作曲」という自らの内なる音楽を解放する行為でした。

 ところで、ベートーヴェンの聴覚障がいの原因について、2000年ベートーヴェンの遺髪がDNA鑑定にかけられ新しい説が浮上しました。遺髪から大量の鉛が検出され、重度の鉛中毒により聴覚神経が損傷したのではないかというのです。ベートーヴェンはワイン好きとして有名ですが、当時のワインの製造機器には鉛が使われ、ワインの甘味料に酢酸鉛が使われていたそうです。


                                     新井鷗子

                (東京藝術大学COI特任教授)

                           

 

新井鷗子 Oko Arai



東京藝術大学音楽学部楽理科および作曲科卒業。NHK教育番組の構成で国際エミー賞入選。これまでに「読響シンフォニック・ライブ」「題名のない音楽会」等の番組の構成を務める。著書に「おはなしクラシック」(アルテスパブリッシング)、「頭のいい子が育つクラシック名曲」(新星出版)、「音楽家ものがたり」(音楽之友社)等。東京藝術大学COI「インクルーシブアーツ研究」特任教授として障がい者を支援するワークショップや楽器の開発に携わる。横浜みなとみらいホール館長。



東京藝術大学COIホームページ: http://innovation.geidai.ac.jp



 


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