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第5回 越懸澤麻衣「過去の偉人から学ぶこと」

更新日:2021年12月16日



 「ベートーヴェン生誕250周年」は、Covid-19の影響で残念ながら多くの企画が中止・変更を迫られたとはいえ、世界中で盛んに祝われている。演奏会に展覧会、新刊書籍や新譜CDの数々、そして記念グッズまで…。今でこそ、250年前に生まれた作曲家の作品が頻繁に演奏され、多くの人々に好んで聴かれるというこの状況は、ごく当たり前のことであり、とりたてて驚く人もいないだろう。

 しかし、ベートーヴェンが生きた時代は違った。演奏会の中心は、何といっても「現代音楽」。プログラムは作曲家の自作自演を含め、ほぼ同時代人の作品で占められていた。250年も前の作曲家―つまりルネサンス後期からバロック初期に活躍したパレストリーナ(1525~94)やモンテヴェルディ(1567~1643)など―の音楽が実際に演奏されることは、極めて稀であった。それどころか、亡くなってまだ100年も経っていないゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル(1685~1759)やヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685~1750)でさえ、当時の人々にとっては「古い」音楽であり、演奏の機会は限られていた。


 そうした中で、ベートーヴェンは「天才はドイツのヘンデルとバッハだけです」(1819年7月29日付ルドルフ大公宛ての手紙)と述べるなど、バロック時代の二人の巨匠をとくに高く評価していた。この手紙は、こう続く―「すべての創造におけるのと同様に芸術界でも自由と進歩こそが目的なのです」。つまり、ベートーヴェンはヘンデルやバッハといった過去の音楽を研究し、それを自らの作品に活かして新しい音楽を書こうとしていた。「温故知新」という四字熟語がぴったりだ。(思えばこの言葉は、私が楽理科を受験した年の入試の小論文のお題であった。入学当時はこういうことをテーマに研究することになろうとは微塵も想像していなかったものだ…。)ベートーヴェンというと「革新」のイメージが前面に押し出されがちで、実際にそれは重要なことなのだが、そのときの彼の視線は未来ばかりでなく過去にも向けられていたのである。


 とりわけベートーヴェンが関心を持っていたのは、現在でも名曲として名高いヘンデルの《メサイア》とバッハの《平均律クラヴィーア曲集》である。後者は、生まれ故郷のボンで過ごした少年時代からよくピアノで弾いていたと伝えられている。

 ベートーヴェンのスケッチ帳には、この2曲を中心に、ヘンデルとバッハの作品がいくつかベートーヴェンのオリジナルの楽想に混じって書かれている。特に自作にとって「有益」だと感じた曲や部分(数小節のごく断片的なものもある)は、自らの手で書き写すことによって、そのエッセンスを学び取ろうとしたのだと思われる。また《平均律第1巻》の5声の〈変ロ短調フーガ〉は、その声部進行がより明確になるからであろう、弦楽五重奏の形態で書き写した楽譜が残っている。ちなみに、このスケッチは現在ベルリン国立図書館に所蔵されており、ウェブ上でデジタル画像を閲覧できる。(私が学生だった頃は、わざわざベルリンに足を運んでも、薄暗い小部屋でマイクロフィッシュを見せてもらうことしかできなかったのだが。便利な時代になったものである!)


 さて、こうした研究の成果はさまざまな作品、なかでも後期作品の多くにはっきりと表れている。たとえば《ハンマークラヴィーア・ソナタ》は《平均律第2巻》の〈変ロ長調フーガ〉なしでは考えられないし、《ミサ・ソレムニス》の〈ドナ・ノビス・パーチェム〉は明らかに《メサイア》の〈ハレルヤ〉の一節を思わせる。《ピアノ・ソナタ第30番》Op. 109の変奏楽章は《ゴルトベルク変奏曲》が、《弦楽四重奏曲第14番》Op. 131は《平均律第1巻》の〈嬰ハ短調フーガ〉がそのインスピレーションの源泉にある。かの時代にあって、ヘンデルやバッハの作品にこれほど興味を示した作曲家は、おそらくベートーヴェンをおいて他にいない。ベートーヴェンは晩年に至るまで、先人に学び続けていたのである。

 そうして生み出された作品は、時空を超え、2020年の日本にいる私たちをも魅了し続けている。では今から250年後は? 250年後の世界なんて想像もつかない。―去年の今頃、こんな2020年を誰一人予想できなかったのだから。けれど、そんな遥か遠い未来にも生き続けているのではないか、そう思わせる生命力をベートーヴェンの音楽には感じる。



越懸澤 麻衣

(音楽学)



 

越懸澤 麻衣 Mai Koshikakezawa


東京藝術大学音楽学部楽理科卒業、同大学院修士課程および博士後期課程修了。ドイツ学術交流会(DAAD)の奨学生としてライプツィヒ大学音楽学研究所に留学。著書に『ベートーヴェンとバロック音楽:「楽聖」は先人から何を学んだか』(音楽之友社、2020年https://www.ongakunotomo.co.jp/catalog/detail.php?code=371130)、訳書にB. クイケン『楽譜から音楽へ:バロック音楽の演奏法』(道和書院、2018年)がある。現在、昭和音楽大学、洗足学園音楽大学、武蔵野音楽大学ほか非常勤講師。


 
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