第7回 沼口隆「ベートーヴェン交響曲の室内楽編曲」

更新日:2021年1月6日


 本年11月1日(日)15:00開演で、東京藝術大学奏楽堂において、ベートーヴェンの交響曲の室内楽編曲ばかりを集めた演奏会が開催される。《エグモント》序曲はピアノ1台4手とヴァイオリンとチェロによる3重奏、交響曲第5番はヴァイオリンとピアノの2重奏、交響曲第2番は弦楽器にフルートとホルンを加えた9重奏である。ベートーヴェンの弟子フェルディナント・リースが編曲した交響曲第2番は(先を越されたのは甚だ残念ながら)ごく最近になって録音が出たが、それでも演奏されるのは非常に稀であろう。あとの2曲の録音は確認できていないし、こうした編曲が演奏会で取り上げられたことがあるのかどうかも不詳である。


 しかし、リース編曲版が音源になったことも示しているように、近年は、こうした編曲への関心が高まってきている。これには、HIP(historically informed performance=歴史的情報を踏まえた演奏)の定着も少なからず影響しているだろう。楽曲が創られた当時の響きに対する関心の高まりは、単なる楽器や響きの違いを乗り越えて、モダン楽器における演奏にまで深く影響を及ぼすようになってきている。我々は、単に作品の「昔の姿」を追い求めているのではなく、我々にとっての有効な(=意味のある)複数の作品像を求めているのだ。作品に唯一の「正しい姿」などというものはない。フルトヴェングラーの演奏も、アーノンクールの演奏も、等しく有効であり得る。有効性の度合いは、受け手によっても左右されるし、受け手が置かれている環境など、さまざまな要素によっても変動する。そして、有効な作品像の中には、当然にして編曲も含まれてくる。編曲演奏もまた、「昔の人は、どのように作品を楽しんでいたのか」ということへの関心であると同時に、現代の我々が楽しめる、新たな作品像を求める試みでもあるのだ。


19世紀には、市民階級が楽器を手にすることが容易になった一方で、録音がまだ存在せず、大編成の楽曲を手ごろな規模に編曲した楽譜の人気が高かった。演奏会の数も限られていたから、自分たちで弾いてみるしかなかったのだ。こうした編曲が過去に演奏会で取り上げられた可能性が疑われるのも、そもそも演奏会のために書かれていないことが大きな理由である。今回の企画におけるように、20世紀以降のレパートリーも楽々と弾きこなすプロフェッショナルたちが、こうした編曲を、公開の場で演奏するというのは、明らかに「本来の姿」ではない。しかし、それも有効な作品像であるはずだし、大いに楽しむべきであろう。我々は、またひとつ新たなる選択肢を手にすることになるのだ。


 今回の演奏会は、国立音楽大学附属図書館が所蔵する「ベートーヴェン初期印刷楽譜コレクション」に含まれる楽譜資料に依拠しており、科学研究費の助成(基盤研究C: 18K00137」)を受けて行われている同コレクションへの調査の一環として企画されたものである。ここに各方面からの御協力に感謝したい。


沼口隆

東京藝術大学音楽学部准教授



《エグモント》序曲 楽譜第1ページ



交響曲第5番(ヨーハン・アンドレ編曲版)楽譜表紙



交響曲第2番(フェルディナント・リース編曲版)楽譜表紙




※本エッセイ内に記載の11月1日(日)「室内楽編曲で聴くベートーヴェン」は

 学内限定公演となりました。

 演奏会の様子は12月2日(水)より動画での配信を予定しております。

 詳細が決まり次第ホームページにてご案内いたします。




沼口 隆 Takashi Numaguchi


東京藝術大学准教授、国立音楽大学および桐朋学園大学講師。ドルトムント大学博士課程修了。専門は音楽学、主たる関心領域は18~19世紀のドイツ語圏を中心とする音楽、とりわけベートーヴェンとその周辺。学術論文・翻訳論文のほか、共著書に『よく分かるクラシックの基本』、『楽譜をまるごと読み解く本』など、共訳書に『シカゴ・スタイル研究論文執筆マニュアル』、『ベートーヴェンの第9交響曲分析・演奏・文献』などがある。


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