第8回 針貝真理子「自由」をめぐる葛藤 — 音楽劇『エグモント』上演にあたって

最終更新: 2020年12月10日




  おれは自由のために死ぬのだ、おれは自由のために生き、戦ってきた。

 ベートーヴェン作曲の音楽劇『エグモント』の主人公は、おのれの死を目前にしてこう独白する。1548年から80年もの長きにわたって続いたオランダ独立戦争初期の英雄とされる彼は、スペイン貴族による圧政からの自由を叫ぶ民衆に担ぎ上げられるが、スペインから派遣された政敵アルバ公に先手を打たれて処刑されてしまう。有名な序曲の冒頭が醸し出すあの不穏な響きが、彼の悲劇をすでに暗示しているかのようである。だが、全幕通して上演されることがほとんどなかったこの劇の全容を知る人は、それほど多くないのではないだろうか。


 今年はベートーヴェン生誕250年を記念する藝大プロジェクトの一環として『エグモント』を上演するということで、ドラマトゥルク担当となった私も、ゲーテ作の戯曲を熟読する機会を得た。また、講義「ドイツ文学Ⅰ」の枠でこの作品に取り組み、それぞれの考えを真摯に発表してくれた参加者には、この場を借りてあらためて感謝したい。一見したところこの作品は、自由を求めて闘う英雄エグモントと、自由を抑圧する悪役アルバ公の対立を描くドラマであるかのように見える。しかし、読み返すほどに明らかになってくるのは、主人公エグモントが抱く「自由」という概念の不確かさとあやうさなのである。ベートーヴェンが「自由、平等、博愛」を謳うフランス革命を熱烈に支持していたのはよく知られた話だが、同時代の作家でありワイマール公国という一国の官僚でもあったゲーテは、「自由」という概念に対して強い葛藤を抱いていたようである。「自由」とはもちろん「よい」ものであるに違いない。現代においても、「自由」が人間らしく生きるために必須の条件であることを疑う者はいないだろう。しかし、エグモントと議論を闘わせるアルバ公によって、私たちが普段ぼんやりと心に抱いている「自由」とはいったい何なのかが、厳しく問い直されるのである。

  自由だと? 美しい言葉だ、誰が正しく理解しているだろうか! 

  どのような自由を彼らは求めているのか? 何が最も自由な人の自由なのか?


「自由」という概念をめぐっては、実際に古くからさまざまな議論がなされてきた。とりわけ、「自由」を謳いながら皮肉にも専制的な恐怖政治に陥ってしまったフランス革命において、「自由」の抱える問題が露わになる。「自由」を制限なく認めれば、弱肉強食の論理が野放しになり、「平等」の方が侵されてしまうという問題である。『エグモント』を読み込むと、まさにこの問題がさまざまな方面から描かれていることが見えてくる。「自由とは何か」という問いに対して、アルバ公はこう答える。「法のとおりをなすことだ!」アルバ公自身の意図は別のところにあるにせよ、「平等」に「自由」を担保するのにも、確かに「法(Recht)」は不可欠である。そして政府の権力者であるエグモントとアルバ公のみならず、ゲーテ自身も官僚としてその一端を担っていた政府というもの自体が、法を基準に無節操な「自由」を制限するという役割を担う存在なのだ。それゆえに、ゲーテの『エグモント』という作品に表れるのが、「制限」に対する「自由」の勝利という単純な勧善懲悪の構図ではなく、「真の自由とは何か」という問いであるのは、ごく当然のことだったと言えるだろう。


「自由とは何か」。この問いは、現代に至るまで続いている。いやむしろ、さらに深刻さを増しているというべきか。現代ほど、「自由」という言葉が市民権を得て巷にあふれかえった時代は他にないが、その内実を振り返るならば、誰もが制限なき自由競争に駆り立てられ、多くの人々が疲れ果てている時代だと言えるかもしれない。そうした時代を襲ったのが、あのコロナウイルスである。多くの人々が職を失い、自殺にまで追い込まれた。そこで真っ先に犠牲となったのは、「平等」の支えを失って行き詰まった人々ではなかったか。コロナ禍は、「平等」なき「自由」の無慈悲という現実を私たちに突き付けたのである。


 これと同様の問題は、『エグモント』の中にも読み取ることができる。国王の代理であるアルバ公に対してさえ堂々と反論する主人公の言動の自由を担保しているのは、先王に与えられた勲章という特権に過ぎない。独文学者、大宮勘一郎はそう指摘する。スペイン貴族の支配を嫌うオランダの民衆は、「自由と特権」を唱えてエグモントを担ぎ上げるが、この言葉が示す通り、その自由とは、誰にでも平等に与えられる自由ではないのである。投獄によって自らの特権を無力化されたエグモントは、民衆からも見捨てられ、牢獄でただ死を待つばかりの人となる。だがそれにもかかわらず、最終場面に鳴り響くのは「勝利のシンフォニー」なのだ。彼が勝利したと言えるのは、いったいなぜなのだろうか。

 彼が勝ち得た自由は、彼の勲章がもたらす特権を失い、投獄されて身体の自由を奪われたときにはじめて、「自由の女神」という美的なイメージとして彼の見る夢の中に現れる。そしてその女神は、エグモントの恋人クレールヒェンの顔をしているのである。彼女こそは、投獄されて特権を失った主人公を変わらず愛し続け、力ない一介の町娘でありながら、民衆にも見捨てられた彼の自由を求めてひとり最後まで闘おうとした人物であった。彼女が何よりも愛したのは、名門貴族という身分でもなければ、「労苦と勤勉で勝ち取り授かる、すべての偉大で貴重なものの印」と主人公が自負する勲章でも、民衆に支持されるカリスマ像でもない。普段必死にその大役を演じている彼が、彼女にだけ密かに垣間見せた、ひとりの人間の素顔なのである。しかしその彼女は、女性であるがゆえに制限されている自らの自由の限界を痛感する。最愛の恋人と祖国オランダの自由を奪い、彼に死刑を宣告した世界に対して、彼女は抵抗する術を持たない。その世界に否を突きつけるために、彼女は毒をあおって命を断つほかないのだ。この世での行き場を失った彼女は、このようなかたちで、まだ見ぬ自由への希求にその身を捧げる。

 獄中のエグモントは彼女の行末を知る由もないが、それでもなお自由を求める彼女の心を微塵も疑わない。そして彼は「自由の女神」の幻に、恋人の甘やかで愛らしい姿ではなく、真剣な面持ちを見てとる。今際の際に彼を鼓舞するのは、誰にもまして勇敢な人間としてのクレールヒェンなのだ。いまや彼女を見つめる彼の目線は、特権の高みではなく、貧しい民衆のひとりである彼女と等しい高さに据えられている。こうして彼女に励まされた主人公は、牢獄を取り囲むスペイン兵を指してこう叫ぶ。

  あいつらを動かしているのは、支配者の空虚な言葉でしかない。

  あいつらは、自分の心に駆り立てられているわけではないのだ。

 自由を求めるこの恋人たちが共に見ているのは、すべてを失ってなお、自らの心が自分自身に与える自由である。ただしそれは互いの平等のうえにのみ成り立つ自由であるがゆえに、そこには不断の問いが生じる。「その自由とは、私たちの心に等しくかなう自由なのか」と。官僚でもあったゲーテは、自らが一端を担う当時の政治では叶わなかった自由の理想を芸術に託し、ベートーヴェンがそのバトンを受け取った。それから200年以上が経った今、私たちはそれをどのように受け取ることができるだろうか。

                                   針貝 真理子

東京藝術大学准教授



※藝大プロジェクト第1回として予定しておりました《エグモント》は来年度に延期となりました。来年の上演をどうぞご期待ください。


              針貝 真理子 Mariko Harigai


慶應義塾大学・大学院でドイツ文学を専攻。2008〜11年にDAADでベルリン自由大学に留学し、同大学で2016年に演劇学で博士号(Ph.D)を取得。論文「都市の声,餌食の場所 ― ルネ・ポレシュ『餌食としての都市』における〈非場所〉の演劇」で第17回日本独文学会・DAAD賞受賞。また、ドラマトゥルギーを担当した、ベルリン在住のアーティスト田中奈緒子のパフォーマンス『Die Scheinwerferin』は、ZKB新人賞、Prix Jardin d'Europeを受賞。東京藝術大学音楽学部准教授。


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