第9回 渡辺祐介「ベートーヴェンと奏楽堂と僕」

最終更新: 1月6日


 「お前とベートーヴェンにまつわるエッセイを書け」との御沙汰を母校から頂戴した。


 既にこのエッセイシリーズには、現職の先生方をはじめ目も眩むような大先輩諸賢が、それはそれは高尚で深い内容の名文を寄稿されておられるのは読者の皆様も御承知のことだと思う。そこへもってきて、皺の数推定5、6本程度のこんにゃく頭しか持ち合わせていない僕が仲間入りをさせていただいて、藝大の金看板に瑕がつきやしないか...。幾分逡巡はあったけれども、たまにはラフな与太話の回があっても、シリーズ全体のちょっとしたスパイスというかアクセントになっていいんじゃないか、と思ってお引き受けすることにした。


 もともと小さい頃からベートーヴェンを中心にしたクラシック音楽が異常に好きだった僕は、生まれ育ったところが山形という田舎街ということもあって、完全に周囲の子どもたちから “浮いて” いた。そりゃそうですよね、周りの同世代の子が日夜J-POP(そんな単語は僕の子どもの頃にはなかったけれど)を命懸けで聴いているときに、僕は同じくらいの熱量でベートーヴェンを聴いていて、しかもそれを隠そうもしないどころか、クラシック音楽に関する蘊蓄を日々学校で得意げに触れ回っていては、これはもう「僕は変な人ですから、どうぞイジメてください」と校内を宣伝して歩いているようなもので、実際中学2、3年生のときは同級生の男3人くらいに結構陰湿なイジメを受けた(こういうときにイジメてくる手合いは、サッカー部とか陸上部とかの運動系と相場が決まっていた)。


 そういう育ち方をしたせいだろうか、はたまた尊敬するベートーヴェンが相当変わり者だったことに憧れていたからか、藝大声楽科に一浪して入学してからは、今度は妙なバンカラ癖が身に付いてしまって、いろいろ妙な騒ぎを起こしたものだ。今回はその中のひとつを書いてみようと思う。


 現在学内に聳え立つ奏楽堂は、実に僕が入学した平成10年(1998年)に落成したもので、早いもので今年で完成してから22年にもなるわけだ。

 奏楽堂にいらした方は御存知と思うが、ここのエントランスは2メートルほど地面を掘り下げたところにあって、地上 (?) からは入り口の様子がよく見えない構造になっている。そしてエントランスに降りる階段の左側には車椅子用のジグザグのスロープがあり、それを降り切ったところは、誰がいても地上からもどこからも見えないという、一種の “死角” になっていた。


 大学3年に上がった4月のある日、僕と同級生のバリトン氏のふたりは、何故だか放課後に学校へ七輪を運び込んで炭火で焼肉をすることにした。春になってうらうらと暖かくなったし、そのために非常に開放的な気分になっていたので、たぶんそんな話が持ち上がったのだろう。なんで七輪があったのか記憶が定かではないが、たしかそのバリトン氏が買ったのだったと思う。

 最初は奏楽堂に隣接する教職員用駐車スペースでやろうと思っていたのだが、なんだか高そうなクルマは何台も停まっているし、あんまり大っぴらにやるのもどうもね、ということで、暗くなってから、しかも上記の奏楽堂の “死角” で見えないようにやるか、となったのだった。


 当時大学のすぐ近くに住んでいたバリトン氏の家から七輪その他、大量の肉やら酒やら、そして肝心の木炭と焚き付けの新聞紙(当時はゲル状の着火剤などなかった)をヒイヒイいいながら学内に運び込んだが、ちょうどベートーヴェンの胸像の前を通ったときにそのベートーヴェンと変に目が合ってしまい、背中がゾクゾクッと寒くなった覚えがあるが、本当はもっと寒くなるべきなのだった。


 その頃は確か日没が18時とか18時半くらいだったと記憶するけれど、ともかく暗くなって人通りもほとんど無くなったところを見計らって炭おこしの作業に取りかかった。気温20度前後、湿度20%程度、そして無風状態とくれば、これは野外で焼肉をするには絶好のコンディションである。七輪に木炭を親の敵のようにブチ込み、新聞紙を雑巾のように何本も絞って焚き付けとし、火をつける。


 そうするとどうなるか。


 薪ざっぽうの新聞につけたマッチの火が高さ3メートルの火柱になるのに、ものの10秒とかからなかった。


 これには慌てた。慌てぬほうがどうかしているというものだが、ふたりがアワアワ狼狽している間に、火柱は完成して3年にも満たない奏楽堂の外壁に盛大 に燃え移りそうになっていた。勢いの止らない火柱を眺めながら、僕の頭のなかでは「不逞学生の身勝手な焼肉遊びで校舎全焼!」「不良学生を制御できぬ 大学の管理責任を問う!」「強制退学」「損害賠償」等々の見出しやらがバンバン飛びまくって気を失いそうになった。だが本当に失神する寸前に急に火の手は弱くなって、3メートルが1メートルほどに落ち着いてしまった。

 やれやれ、と胸を撫で下ろしたちょうどその時、たまたま奏楽堂に用があったとおぼしきホールスタッフの人(名前は今も覚えているけど、特に秘す)に見 つかってしまい、

「キミたち、なにやってるの!!!!あっちでやんなさい!気持ちはわかるけど」

とこれまた盛大に追っ払われた。


 しかし「あっちでやれ」というのだから、焼肉するのは構わないとうことなのだろう...、と結局件の駐車場で再開したが、暗がりで目を凝らして先ほど火柱があがった死角周辺の外壁をみれば、火柱の形のとおりに黒く煤がついていた。


 これが僕の周りでは密かに有名な「奏楽堂焼討ち未遂事件」の顛末である。


 その後駐車場で焼肉をつつき酒を飲みながら、ふと先ほど目があったベートーヴェンのことを思い出して再び背筋が寒くなった。そうか、あのときゾッとしたのはこういうことだったか...。そんなことを考えながら飲み食いしていたら、翌日は猛烈な二日酔いになってしまい、病院に転がり込むことになった。 人一倍正義感の強かったというベートーヴェンの逆鱗に触れたか、さもなくば時期外れの "迎え火・送り火” まがいのことをしたために、奏楽堂を建設する際に地中からゴロゴロ出てきたという人骨の霊が怒り狂ったためと今でも信じているが、ことベートーヴェンと奏楽堂と僕の取り合わせでは、その後も不運が続くことになる。


 5年ほど前の冬にとあるアマチュアオーケストラに頼まれて、奏楽堂でベートーヴェンの《ヴァイオリン協奏曲》や《交響曲第5番》などを指揮する本番があった。これは僕の発案で「ベートーヴェンと通奏低音」というテーマで、全曲にフォルテピアノの通奏低音を入れて演奏する、という試みだった。相当時間をかけて準備したのに、本番当日だけ膝まで埋まる大雪に見舞われて、満員になるはずの奏楽堂にはわずか数十人しかお客が来なかった(でもよくそれだけ来たものだと思う。都内の交通機関は完全に麻痺していたのに)。


 そして今年(2020年)、僕が音楽監督を務めるオリジナル楽器オーケストラ「オルケストル・アヴァン=ギャルド」が、演奏藝術センターの企画でベートーヴェンの劇音楽《エグモント》を演劇付きで全曲演奏するという、全くもってベートーヴェンの当初の意図どおりの形式での演奏会が8月の末にあるはずだったが、このコロナ禍であえなくおとり潰しになった。尤も、これは来年に延期公演をという話が持ち上がっているので、どうやら雲散霧消ということではないようでホッとしているところだ。


“Durch Leiden zu Freude”

 このベートーヴェンのモットーを、ベートーヴェンの信仰者は「苦悩を突き抜けて歓喜へいたれ!」と崇高な解釈をするが、実はこれはせいぜい「我慢していれば、そのうち良いこともある」「楽あれば苦あり」といった程度の、日常的な意味合いしかないのだそうだ。 奏楽堂でベートーヴェンをやろうとすると、大雪が降ったり疫病が蔓延したりで必ず邪魔が入るが、マァこんなことを書き散らしていたら、次回はその我慢したぶん奏楽堂では大成功な演奏会ができるような気がしてきた。まったく楽あれば苦ありだよね...と自分に言い聞かせて、再び明日からベートーヴェンのスコアを眺めることにしよう。


渡辺 祐介

(声楽家/オルケストル・アヴァン=ギャルド音楽監督)

渡辺 祐介 Yusuke Watanabe


東京藝術大学音楽学部声楽科卒業、同大学院独唱科修了。声楽を多田羅迪夫氏に師事。

大学院修了後オランダのデン・ハーグ王立音楽院にて、ペーター・コーイ、マイケル・チャンス、ジル・フェルドマン、リタ・ダムスの諸氏のもとで研鑽を積む。2002年4月より鈴木雅明氏の主宰するバッハ・コレギウム・ジャパンのメンバー。

現在マヨラ・カナームス東京音楽監督、東京ムジーククライス常任指揮者、東京クローバークラブ指揮者、オルケストル・アヴァン=ギャルド音楽監督。古楽アンサンブルCantus Ebrius主宰、Coro Libero Classicoメンバー。

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