第3回 迫昭嘉「ベートーヴェンと私」

最終更新: 10月14日


 私にはベートーヴェンは厄介な作曲家である。昨今のコロナ禍で人々を勇気づける「音楽」の存在がクローズアップされているが、彼の音楽はその筆頭かもしれない。ベートーヴェンの残した偉大な作品は自分にとっても大切な宝物であるが、それでも演奏する側にとっては厄介なのだ。

 たいがいの小・中学校の音楽室に貼られているあの絵、誰もが知っている鋭い眼光と意志の強そうな口元、楽聖ベートーヴェン50歳の肖像画、F・ヴァルトミューラーが描いたものである。いろいろな肖像画が並んでいるだけでも音楽室はなんだか不気味な感じなのに、あの顔つき。「夜の音楽室」が怪談話になるというのも納得である。


 とにかく我々の時代は子供のころから無条件にベートーヴェンは偉大な音楽家だと教え込まれてきた。襟を正して彼の音楽を聴かねばならない、といった感じである。なんといっても楽聖なのだ。その驚くべき音楽の才能とともに共和主義的な自由と博愛の精神をもち、全人類の友和を願った人、音楽家としては致命的な聴覚を失う悲劇から不屈の精神で立ち上がる、などのベートーヴェン神話は耳にタコである。また、センシティヴな面もある一方で、ピアノを10台、20台と叩き壊し、隣近所や大家と怒鳴りあっては70回以上もの引っ越しをするなど、まるで野人だ。これらの話は秘書のシントラーはじめ後世の人々が盛った部分も幾分あるようだが、ウィーンに出てピアニストとしてスターであった頃は女性関係も結構派手だったらしいし、機嫌の良いときは愛想の良い人でもあった。彼の人物像のあれこれについては研究者の手に委ねるべきだが、体調の悪化とともに気分にむらが多くなり(これは彼に限った話ではないだろうが)、彼の気難しさと付き合えるのは、その才能を愛する懐の広い貴族や一部の忍耐強い人だけになっていったことは間違いない。


 私はいろいろな受容体験を通じて彼が残してくれた作品の素晴らしさ偉大さに心から感謝しているのだが、それでも、個人的には彼とは仲良くなれないような気がする。なぜならこの偉人のエネルギー全開の気難しさを受け止められるほど自分の懐はそんなに広くないからである。


 だいぶ以前にイタリアのミラノでベートーヴェンソナタ全曲9回のコンサートを9人のピアニストで弾くという企画があり、巨匠や中堅が並ぶ中に一晩弾かせてもらったことがある。当時私は30歳になったばかり、それまでリサイタルや協奏曲などでもベートーヴェンをとりあげてきていたので喜んで引き受けたのだが、いざ練習に入るとその疲れ方が尋常ではなかった。初めてのオール・ベートーヴェンのプログラムだったのだが、ベートーヴェンばかり毎日練習し続けることがこんなに大変だとは思わなかった。とにかく響きが心地よくないので耳が疲れる。音楽はしなやかさとは縁遠く身体が固まる。何よりこちらのエネルギーが足りない!このエネルギー、なにも爆音で邁進するということばかりではない。彼の音楽が必要としているパワーである。内向的な緩徐楽章ですら奏者に要求されるエネルギーは相当なものなのだ。楽聖の偉大なるゆえんだが、一瞬ベートーヴェンが嫌いになった。ただあとで気がついたことは、私自身が彼の音楽からエネルギーをもらっていたことなのだ。


 ベートーヴェンの作品と向き合っていかなければならない私たち音楽家にとって何より厄介なのが、彼の超人的なエネルギーだ。私たちは演奏する楽曲を前にしてまず楽譜から得られる情報を得、そのほか作品に関する諸々の知識を得る。技術の克服はもちろんだが、そこまでのアプローチは多分誰の作品に対しても変わらない。問題はそこからである。例えばロマン派の音楽では自分と共有できる感情を見つけて心を寄せることができる。印象派の音楽であれば、色彩感覚を研ぎ澄ます作業になる。しかしベートーヴェンの音楽はそうはいかない。彼の「包容力と破壊力を兼ね備えた巨大エネルギーの放出」、これが必要なのだが、そんなもの簡単に手に入るわけがないではないか!おまけに晩年の作品になるとそれは現世を超越してまるで宇宙的エネルギーに変わっていく。厄介極まりない。緻密な構造が理解できてもこのエネルギー無しには音楽にならないのである。


 では、そんなに厄介なのに、なぜベートーヴェンを演奏するのかと聞かれたら、うーむ、何かが揺り動かされるからとしか言いようがない。作品と奏者と聴衆の間で循環するエネルギー、これこそがベートーヴェン体験のだいご味なのだろう。


 厄介な相手だが、先方からもしっかりパワーももらいつつ自分の許容量を広げながら演奏を続けたいと思う。不屈の精神とは縁遠いかもしれないが、少しでも多く彼のエネルギーの循環に参加したいと思う今日この頃である。

迫 昭嘉

(東京藝術大学音楽学部教授)



迫 昭嘉 Akiyoshi Sako



東京藝術大学音楽学部教授、東京音楽大学客員教授、洗足学園音楽大学客員教授。東京藝術大学及び東京藝術大学大学院、ミュンヘン音楽大学マイスタークラス修了、ジュネーヴ国際音楽コンクール最高位、民音コンクール室内楽部門優勝、ハエン国際ピアノコンクール優勝及びスペイン音楽賞、ABC国際音楽賞受賞(1998)。デビュー以来、気品ある音色と透明度の高いリリシズムを持つピアニストとして、日本はもとより海外でも高い評価と信頼を得てきた。CD「ベートーヴェン・ピアノソナタ全集」は「ドイツ・ピアニズムの本流を継承する名手」と評価され名演奏の呼び声が高い。また、近年は指揮者としての活躍も目覚ましく、今後の動向が注目されている。



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